足助deハイクスール

asuke  haiku

江戸時代後期、足助には全国的に有名な俳人がいました。

板倉塞馬と言います。
通称・板倉七衛門。足助本町・池田屋(味噌醤油業・現大和屋の屋敷付近)6代目(天明8年7月21日生)

板倉塞馬は巴洲(はしゅう)塞馬(さいば)一庵(いちあん)の三つの俳号を使いました。

初号は巴洲でしたが、妻の七回忌以後は塞馬と改号しました(30歳)
秋挙没(文政9)後は卓池に師事し、天保12年に卓池刊『円満集』の序文を書いた頃より、卓池の後継者として活躍し始めました。
弘化元年(57歳)に半足庵に入庵し、一庵十号して漢学塾を開きながら、家業から離れ専業俳諧師となりました。

卓池没(弘化3)後は、卓池句碑・句集の子音流・編集をし、卓池勢力圏の保持に奔走しました。

茶道は、天保12年より青可に学び、宗機と号しました。

慶応3年11月24日没、80歳。墓碑は、辞世の句碑及び塞馬顕彰碑とともに足助町本町普光寺の墓地にあります(深津三郎『続 板倉歳馬全集』より抜粋)

辞世の句
雨の後よい月夜かな桜かな  塞馬

板倉塞馬

花の香や寺から寺へ通りぬけ

先へ行く人も梅折る野道かな

つくろはぬすがたや藪の梅の花

背戸先にもやひ井戸あり梅の花

桃さくやちょろちょろ水の折曲がり

もみじ (足助俳壇)

かつて足助の人々は俳句を日常的に楽しんでいました。たった17音の言葉から当時の様子が鮮やかに浮かび上がります。

野田子悠

桔梗立ち撫子沈む花野かな   
途切れつつつづく遠足橋長し  

野葡萄の蔓逆立ちす初嵐  

けしの雨甚だ細く美しく

夕立の来るのを感じつつ歩く

月ちらと鳴瀬の上に輝けり
金魚売り窓を見上げて買へといふ
草刈女蜂と戦ふ鎌を振り
朝顔に親しみ佇てば虻が来る

夏痩をねぎらふすべもなきたつき

月欠けて行くばかりなる虫の原

月抱いて輝けにけり雲がしら

中天に雲一つ浮く月抱き

君が鼻月影待ちて高きかな

ちらばりて邪魔にもならず月の雲


加藤木瓜

薄暑独りのラムネ吹き激らす 

アドバルン地のキューピーに春衣なし

鶏頭のすくっと紅し基地ひろがり

けいとうにガラス歪みて幾何学模様

秋刀魚燃えて子等の世界に妥協なし

野田浩陽

提げて来し包西瓜に紛れなく

鶏頭のすくっと紅し基地広がり    
水着干す泳ぎ疲れをおぼへつつ

散り銀杏屋根に育てて庵は留守

紅葉よしちらばる岩をさじきとし

 

 

 

石本鶏人

遠く見し鶏頭いまはその辺まで    

朝顔の露濡るる間のいのちかな 

     暗き世のくらき雨降る曼珠沙華

     失せ吾が前に曼珠沙華遣る 

 

 青山天外

虫いろみしている柿のバタと落つ

ぐっすりと寝て初夢もなかりけり

仏縁に長引く話十三夜

膝に皮とどきて柿むき終わる

くもの囲に秋蝶力抜けゐたり

月を背に漆黒の山そそり立つ

雲かける時月も亦天かける

 

 

川崎栖虎

蟷螂枯る土地塊既に温み失せ

紅葉渓眼つむれば虹渦巻けり

戦禍知らざりし紅葉焔ゆるにほしいまま

さめし瞳に菊いただきの光る庭

鰯雲架けて大幹枯れ急ぐ

樹下低く蓑虫垂りて月に光る

 

雲もなし銀河を渡る後の月 松井みね


蛾の影をうつして映画終わりけり 巴流

 

老の皺深く名月に照らさるゝ 涙鳥

 

打ちぬきし板木の穴に秋日澄む 広瀬広空

 

鳥たてば紅葉落葉のうらがえり 鈴木由紀

 

綿虫の風にさからひ得ぬあわれ 宇野蝸亭

 

新らしき傘の匂いや秋の雨 安藤一好

 

云ふべきを云い虫の闇に煙草捨つ 加藤八重子